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あなたも天国に行くことができます。

R.A.ト−レイ先生は、コネチカット州ニューヘイブン市に住む若い女性との会話の内容を話してくれました。彼女は会話の途中で突然話を遮って、先生に言いました。「そんなふうに話さないでください。私は考えたくないのに、先生のお話を聞いていると、どうしても考えてしまうのです。」罪に倦み疲れた世界は、考えようとしない人々で満ちています。「救い」という大切なことを考えようとせず、全ては永久にうまく行くと思い込んでいるのです。もちろんこれは真理からは程遠いことです。私はここで皆さんに心からお願いしたいことがあります。地獄から逃れて天国に行くことを、しばらくの間、私と一緒に真剣に考えて頂きたいのです。

人は誰でも天国に行きたいのです。その人が正気であれば、恐ろしい地獄で永遠を過ごしたいとは、決して考えないと思います。私が出会った人の中で、一人だけ地獄に行きたいと言う人がいました。その人はイリノイ州のリビングストンに住んでいた人で、結局、精神に異常があると診断され、3日後には州立病院に入院しました。読者の皆さんは、最終的には天国に到達したいとお考えではないでしょうか。

しかし、ある黒人の奴隷の人がアラバマ州で綿花を摘んでいる時に、このように歌っていました。「天国、天国。みんな天国のことを歌うけど、自分は行かないよ。」天国に入る人よりも、天国を逃して結局地獄に行ってしまう人の方が多いと、イエス・キリスト御自身が権威をもって教えておられます。キリストは、マタイ7章13-14節で、こう語っておられます。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

この問題は最も重大なテーマですから、基本的なところからお話したいと思います。

I. 罪:天国への道を妨げるもの

 「どうして神様は、人が死んだらみんな天国に行けるようにしてくださって、それで終わりにしてくれないのだろう。人が天国に入るのを邪魔しているものは何だろうか。」そんな質問をする方もいるでしょう。その答えは、「罪」です。

罪人が天国に入ろうとするとその扉を罪が閉じてしまうことを、聖書はどれほどはっきりと語っているかを考えてみてください。神様は、黙示録21章で、栄光の輝く天国の様子を語っておられます。そこでは、門は真珠でできており、街路は透き通ったガラスのような純金で覆われ、壁は碧玉でできています。その後で、神様は警告を発しておられます。

「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。」黙示録21:27

「決して」という表現に注目してください。どんな状況であっても神様は罪も罪人も天国に入ることを許されないのです。聖書の最終章である黙示録22章では、天国の栄光をもう一度描いた後に、神様はこう宣言しておられます。

「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」黙示録22:15

もう一度はっきりと申し上げたいのです。全能なる神様は、罪人が一人たりとも天国に入ることを許されないのです。その素晴らしい、汚れもしみもない天国は、たった一つの罪、一人の罪人によってその輝きが曇ったり、汚されたりすることはないのです。それゆえ、神様は御自身の天国を守って、きよく保つために、罪人が一人たりとも天国に入ることは許してはおられません。

もし、一人の罪人が天国に入ることを神様が許されたとしたら、その罪人は天国で罪を犯すでしょう。ヒットラーやクルシュチェフは、革命を起こす前から、天国に入ることはできなかったでしょう。詐欺師は、騙されやすい人に純金の街路を売ろうとするでしょう。嘘つきは、贖われた人や天使、そして神様さえも常に騙そうとするでしょう。姦淫を犯す人は、たとえ心の中であったとしても、自分の情欲を満たそうとするでしょう(マタイ5:27-28)。黙示録22:11で、神様はいつまでも罪を犯し続ける罪人に関する真理を語っておられます。「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。」ですから、もし一人でも罪人が天国にはいってしまうなら、その罪で天国を汚してしまうのです。贖われていない(罪が赦されていない)罪人にとって、天国はいわば立ち入り禁止の場所なのです。

第一コリント6:9-10において、神の御言葉ははっきりと語っています。

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」

同じ真理がエペソ5:5-6に記されています。

「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者NNこれが偶像礼拝者です。NNこういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」

ガラテヤ5:19-21では、この真理が更にはっきりと語られています。

「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

  罪:普遍的な事実

 多くの人々は、殺人や姦淫を犯したことはなく、強盗をしたこともなければ隣人からだまし取ったこともない、また、いわゆるひどい罪を犯したことはないと言って、自分の突き刺して来るような良心を何とか静めようとします。皆さんも同じことをしていらっしゃるのではないでしょうか。そうであるなら、上記の聖書の御言葉から、神様が憎しみと殺人、ねたみと姦淫、争いと酩酊、そして怒りと魔術を同じく責めておられることを思い出して頂きたいのです。

神様は次のようにもおっしゃっています。

「何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」ローマ書3:22-23

何の差別もありません。女王も淫婦も変わりはないのです。大統領も貧者も差別はありません。社会的なリーダーも泥棒も変わりはないのです。もし、皆さんが道徳的に自分では正しいと思ってはいてもイエス・キリストを信じていなければ、神様の前には無知で、愚かな男達と関係をもって稼ぐ身を落とした罪深い女性と変わりはないのです。キリストをご存知なければ、たとえ社会的に高く評価されて、同僚から尊敬されていても、神様の前には救世軍に無料でスープと寝る場所を請う酔っ払いや麻薬中毒患者と何ら変わりはありません。

犯した罪の回数や程度に差こそあれ、両者ともその罪のゆえに神様は天国の門を閉じてしまわれます。

全ての人は神の前に罪人として立ち、永遠に地獄の苦しみを当然受けるに値するものであることを、聖書は何度も繰り返して語っています。

「この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。」伝道者の書7:20

「神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者が

いるかどうかをご覧になった。彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」詩篇53:2、3

「まして忌みきらうべき汚れた者、不正を水のように飲む人間は、なおさらだ。」ヨブ記15:16

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」イザヤ53:6

「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」ローマ書3:10-12

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」第一ヨハネ1:8、10

ある人は平均以上の罪を犯し、ある人はそれ以下の罪しか犯さなかったかも知れません。しかし、全ての人は皆罪を犯し、それゆえ、「神のさばきに服する」のです(ローマ書3:19)。これを否定するなら、自分を騙すことになり、その上神様を嘘つきと呼ぶひどい罪を犯すことになります。キリスト御自身が次のようにおっしゃっています。「良い方は、ひとりだけです。それは神様です」(マタイ19:17)。皆さんも私も罪人であり、私たちの罪のゆえに、天国の扉は私たちの前に閉じられていると、神様は結論づけておられます。

誰かが罪の支払いをしなければならない

罪は解決されなければなりません。不従順には罰が伴います。神様は、罪の支払い、つまり罪を解決して正すことなくして、ただ赦してくださるのだと言う人がいます。また、神様は愛の神なので、苦しみの尽きない永遠の地獄には、御自身が造られた人間を誰一人送られることはないという人もいます。

しかし、神様が啓示された真理と私たちの理性を重ね合わせてみると、そのような愚かな考え方を拒絶せざるを得ません。違法行為に対して、全く処罰されないとしたら、自分が住んでいる町はどうなるかを想像してみてください。警察もいなければ、牢獄もない、強姦や泥棒、殺人や治安妨害、その他様々な犯罪に対して、判決も処罰もないとしたら、どうでしょうか。州の法律を犯した者に対する刑罰がなければ、その州はどうなってしまうでしょう。そのような状況にある国はどうですか。そんな絶望的な状況に陥ったとしたら、世界はどうなるでしょうか。

理性的に考えるならば、罪は罰せられなければならず、犯罪者は善良な市民から分離させられるべきです。それは、彼らが他の市民に悪をもたらすことを防ぐためです。神様とその律法についても全く同じことが言えます。聖書が主張していることは正しいのです。「罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(エゼキエル18:4、20)「罪から来る報酬は死です。」(ローマ書6:23)と神様がおっしゃることは決して不当ではありません。永遠の原則はそのまま残ります。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」ガラテヤ書6:7

罪人が罪を犯して罰せられないとなれば、それは正しくありませんしありえないことです。

これまで考慮して来た聖書のみことばから、次のような明白な聖書的な結論を得ることができます。

(1)全ての罪と罪人は天国に入ることはできない。

(2)地上の人はみな神の前に罪人である。

(3)それゆえ、天国の扉が開かれている人は、例外なく誰一人いない。但し、罪が完全に全て取り除かれていれば別であるが。

しかし、神様に感謝することは、全く望みがないわけではありません。同じ神のみことばが、栄光と喜びをもってその祝福された真理を世界中に告げ知らせています。

II.            キリスト--天国への道

ヨハネの福音書14章にて救い主イエス様は、御自身が準備されようとしていたすばらしい天国について弟子たちに語っておられます。誰もが答えを知りたいと思っていた、とても大切な質問をトマスが尋ねた時(訳注:「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」)、主は答えられた。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14章6節

キリストが天国への道であり、唯一の道であることに注目してください。イエス・キリストを通してでなければ、誰一人御父の御もと、すなわち、たくさんの住まいがある御父の家に行くことはできないのです。コロサイの教会にあてたパウロの書簡はこう語ります。「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)。キリストを心にお迎えしない限り、誰一人天国の確かな望みを得ることはできません。

キリストの死は罪人のために天国の扉を開いた

邪悪な罪人のために閉ざされた天国の扉を、キリストはどのように開けてくださったのでしょうか。実に、彼らの罪の罰を御自身で支払われるという方法によったのです。この支払いをカルバリの十字架で遂行されました。罪人がキリストを救い主として受け入れるならば、神は義なるお方ですが、その罪人を義と認めることを可能となさいました(ローマ書3:26)。

イザヤは何世紀も前にカルバリにおける神の犠牲を予見し、聖霊によってこのように記しました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:4-6節)

救い主キリストは、罪人のために御自身を犠牲としてささげ、私たちが当然受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受けられました。そのすばらしい福音は、聖書の他の箇所にも数多く記されています。聖書は語ります。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ2:24

「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」ヨハネ1:29

「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」第一ヨハネ3:5

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」第一ペテロ3:18

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ1:7

読者の皆さん。父なる神の最愛の御子イエス・キリストが天の栄光を後にして地上に来られ、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるために、仕える者の姿をとられました(ピリピ2:7)。どうぞそのことを神に何度も感謝してください。聖書は語っています。

「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ピリピ2:8

罪は人と天との間に渡ることのできない亀裂をもたらしました。しかし、イエス・キリストは十字架によってその谷間に橋を架けられました。罪は神と人との間に壁を作り、その壁は途方もないもので、黒人霊歌ではこう歌います。

「わが主よ、それはあまりにも高くて、越えることはできません。

あまりにも広くて回り道をすることもできません。

あまりにも低くてその下をくぐり抜けることはできません。」

しかし、神の御子は十字架によって、要塞をも打ち砕く力で、その壁にもっとも卑しい罪人が通れるような大きな穴を開けてくださったのです。今や十字架とキリストを通って来る人は誰でも神の交わりに入れて頂くことができるのです。

カルバリの犠牲は誰にでも、全ての人に十分です

さて、誰でもイエス・キリストを信じるなら、その人は永遠に救われるのですから、もし天国に入れなくて、地獄に行ってしまった人がいてもその人は決して言い訳をすることができません。最も卑しい男性であれ、もっとも劣悪な女性であれ、どんなに汚れた若者であっても主イエス・キリストによって罪の赦しと罪からの救いを得ることができます。神様が変わることなく提供してくださっている救いとは、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37)という約束と、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)という約束をともなっています。

救われたいと願う人なら誰でも救われて天国に行くことができます。すでに申し上げましたが、神様は不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、

盗む者、酒に酔う者、そして、どんな罪を犯している者も天国に受け入れられないと誓っておられるのです(1コリント6:9ー10)。しかし、そのすぐ後で、以下のように宣言されております。

「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:11)

考えられるどんな罪を犯した罪人でも、主イエス・キリストにあって赦しを見い出すことができます。私は読者の皆さんのことも、どのような罪を犯してこられたかも存じ上げませんが、間違いの1つもない神の御言葉の権威によって、私ははっきりと保証することができます。あなたもイエス・キリストを信じるならば、罪が赦されて、救われるのです。

次の詩を書いた詩人が叫んだことは、全く正しいことです。

「私たちの解放の為に支払われ、私たちの緋のようなしみを聖めた血、

もし、その血が聖めることのできない罪が一つでもあるなら、

地でも地獄でも示してみよ」

神の御言葉は語ります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)

時代を越えて人々に愛されている歌、「おどろくばかりのめぐみなりき このみのけがれを知れる我に」と歌ったジョン・ニュートンは、南大平洋諸島をまわる奴隷商人で、酔っ払いのラム酒密売業者であり、当時のありとあらゆる罪を犯してきた人でした。しかし、ウ−ルノス・チャペルの北側の壁に100年以上も前にかかげられた彼自身の墓碑にこう記されています。

「ジョン・ニュートンー牧師ー

かつては不信者で、放蕩者、

アフリカにて奴隷のしもべ

しかし、主であり救い主である

イエス・キリストの

豊かなあわれみによって

守られ、回復され、赦されて、

長い間自分が滅ぼそうとした信仰を

のべ伝えるために任命された」

神様は、ジョン・ニュートンだけでなく、地獄に行くしかない数えられないほどの罪人に、時代を越えてなさったことを、あなたにもしてくださいます。罪は天国への道を妨げるものです。しかしキリストによる贖いの死は、望む者に天国へ行く道を開いてくれます。

キリストによって備えられた救いがあなたのものにもなります。それがどのようにしてなるのかをお知りになりたいとは思いませんか。聖書の御言葉が明らかにすることを注意深く学んでください。

III. 信仰こそ、天国へ入るためのカギです。

 ここに、一般の常識では相当理解に苦しむような奇妙なことがあります。それは、救いは信仰のみによるのであって、人間の功績は、全く関係がないということです。一般に、良い行い、正しい行い、宗教的な行い、道徳的にとても高い行動、あるいは、その他、正しいと思われる様々な形の業績があれば、天国に入ることができると考えられています。しかし、聖書はその逆で、努力をして天国を勝ち取ることは決してできないし、天国に入るに値する業績もないとはっきり語っています。

エペソ2章8ー9節は、次のように語ります。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

そして、テトス3章5ー7節は、すでに救われたクリスチャンにどのように救いが与えられたのかを思い起こさせてくれます。

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」

親しまれている賛美歌、「かくせやわれを」を書いたオーガスタス ・M・トップレイデイは、この真実を正しく記しています。

「私の手による行いは律法の要求を満たすことはできない。

私の熱意は休みを知らず、涙はとこしえに流れる。

しかし、何をしても罪を贖うことはできない。

あなたが救って下さらなければ。あなただけです。」

聖書の示す方法とは、信仰による方法なのです。

神様の御言葉全体を通して唯一教えられている救いの御計画によると、罪は信仰によってのみ赦され、人はただ信仰によって永遠のいのちを受けることができるのです。御子を信じる者すべてのために、神様は天に住まいを用意していると何度も保証しておられます。

以下に、2、3の明確な記述がありますので、考えてみてください。

この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」使徒10:43

「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」ガラテヤ2:16

「『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」使徒16:30-31

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」ローマ3:20-22、24-26、28

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」ヨハネ3:14-18

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」ヨハネ3:36

「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」使徒13:38、39

愛する読者の皆さん、救いとは、神様がカルバリの丘で完成された御子の御わざによって与えられたものを、ただ信仰によって受け入れることだということがおわかりでしょうか。イエス様があなたの罪を赦し、天国に引き上げてくださることを信じる瞬間に、天国の住まいがあなたのものになります。御子を信じることができますか。偽ることのできないお方(テトス1:2)が、「イエス・キリストを自分の救い主であると信じる人はすべて救われる」と約束してくださいました。このお方を思い切って信頼しませんか。それは、神様がおっしゃることをただそのまま受け入れることなのです。

偉大な宗教革命指導者、マルティン・ルターは、ある時、「あなたの罪が赦されていると感じますか。」と質問されました。その素晴らしい信仰者はこう答えたのです。「いいえ、私は罪が赦されていると感じてはいません。そうではなく、罪が赦されていることを知っているのです。なぜなら、神様は御言葉でそうおっしゃっているからです。」まさにその通りです。御子を自分の救い主と信じる人には、誰にでも救いを与えると神様は約束なさったのです。さて、もしあなたがキリストを受け入れるなら、神の御言葉が語っている通り、救いと天国はあなたのものです。あなたの救いが可能となるために、御子は死なれました。御子に救って頂きませんか。

神はキリストを拒む人を救うことができない

このメッセージを終える前に、私は皆さんに警告したいのです。カルバリにおいてキリストが完成された御わざは、キリストを受け入れようとしない人には全く価値のないことであり、意味もありません。神様はヘブル書10:26-27で、語っておられます。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」

キリストがカルバリで死んで、葬られ、よみがえられたことで捧げられた犠牲をあざけるなら、その人のために救いの方法が別に用意されてはいません。

アメリカの司法の歴史を綴った記録の中でもっとも奇妙な事例の一つに、ジョージ・ウィルソンという若者に関するものがあります。1829年12月6日に行なわれた犯行で、ウィルソンと仲間のジェームズポーター(別名ジェームズ・メイ)は、ペンシルヴァニア州東部の連邦巡回裁判所で、6件の容疑で起訴されました。そのすべては、郵便物の配達を妨害したり郵便物を盗んだというものでした。そのうちの2件は、サムエル・マクレアという配達人の生命を危険にさらしたということです。有罪が確定し、両者は翌年7月2日に死刑を宣告されました。

ポーターは、宣告通り死刑となりましたが、非常に多くの立派な嘆願者たちがウィルソンの命乞いをしたので、アンドリュー・ジャクソン大統領は、公式の恩赦を発し、大統領に代ってマーテイン・ヴァン・ブーレン国務長官が署名しました。そこには、大統領は「ジョージウィルソンが死刑の宣告を受けている罪を赦し、その刑罰を免除した。」と記してありました。

そこで、予想だにしなかったことが起こりました。なんとウィルソンは恩赦を拒否したのです。

法学の分野でもっとも著名な人々が呼ばれ、どうすべきかを話し合いました。ついにこの問題は最高裁判所に持ち込まれました。国の最高司法機関は、当事者が受け入れるまで恩赦は無効であると全員一致で決定しました。ジョン・マーシャルというアメリカではもっとも有能な法律家の一人で、連邦政府最高裁判所の第四主判事は、その決定で以下のように記しています。

「恩赦とは、あわれみの行為であり、法の執行を委ねられている権威から発生する。それは、個人をその犯した罪のゆえに負わされた刑罰から免除するものである。

恩赦とは、行為であり、釈放があって始めて、その妥当性が確認される。釈放はそれを受け入れることがなければ、完成しない。恩赦が提供されている個人に拒否されることもある。そして、もし拒否されるなら、恩赦をその人に強制する力が我々にはないことを確認した。

死刑を宣告された人は決して恩赦を拒否することはないだろうと考えられるかもしれない。しかし、死刑の場合も軽犯罪の場合も規則は同様でなければならない。」

同じことが霊的にも言えるのです。罪は皆さんが罪人であると判決をくだします。そして永遠の地獄という判決を受けているのです。正気であれば、御子イエス・キリストがカルバリで備えてくださった神様の愛の恩赦を拒否することは、まず考えられないのです。しかし、もし拒否されるなら、あなたの場合、それは赦しどころではありません。贖い(償い)は、価値がないだけではなく、それよりもひどい結末をもたらします。永遠の地獄で自分の罪の代価を自分で支払わなければならないのです。

神様の赦しを拒まないで、今キリストを信じてください

そうです。あなたも天国に入ることができます。しかし、「遅すぎた」と後悔する日が来る前に、今この問題を解決すべきです。 救いを遅らせることについて、神の御言葉は多くの警告を発しています。たとえば、このようにあります。

「 あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、

あなたは知らないからだ。」箴言27:1

「責められても、なお、うなじのこわい者は、

たちまち滅ぼされて、いやされることはない。」箴言29:1

「ですから、聖霊が言われるとおりです。

『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に

御怒りを引き起こしたときのように、

心をかたくなにしてはならない。』」ヘブル3:7-8

「今は恵みの時、今は救いの日です。」2コリント6:2

キリストに対する決心

もしあなたが確実に天国に行きたいと望み、今日イエス・キリストをご自分の救い主であると信じるなら、以下にご自分の決心を記してください。そして、できるだけ早く、ご自分の決心を他の人にも知らせてください。

名前                        日付け

Dr. Robert L. Sumner

5717 Pine Drive

Raleigh, NC 27606-8947

サムナー先生

私は、みじめな罪人で、自分の邪悪さのゆえに永遠に地獄で神の裁きを受けるものであることを告白します。しかし、私は神の御子イエス・キリストが死んで、葬られ、よみがえられたことによって、私の罪の刑罰に必要な支払いをしてくださったこと、そして私は天国に行くことができることを信じます。今ここで、確かに正直に自分の罪を悔い改め、神様に救って頂くようにお願いします。私は、確かに主イエス・キリストに心を開き、私の心に入って頂くようにお願いします。神様が約束してくださったように、私に永遠のいのちを与えて頂きたいのです。そして地上における人生が終わる時に、天国に連れて行って頂きたいのです。イエス様がそのようにされることを信頼します。私は、できるだけ早い機会に、イエス様が私の救い主であることを他の人に告白します。神様の助けによって私は残りの生涯を神様のために生きたいのです。

お名前

ご住所

もしこの部分を印刷して上の住所に郵送してくださるなら、私は助言と励ましの手紙を書いてお送り致します。今や、心からキリストを信じて受け入れたのですから、バプテスマを受けて、聖書を信じる教会に連なるべきです。

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